ぼくらの先生

 

E市立H中学校43期生 3年B組 生徒名簿

担任 高坂三代

 

1番 新井遠澄

2番 石原貴理

3番 稲垣ひより

4番 遠藤唯

5番 大江光

6番 片岡有希

7番 金輪瑠璃

8番 小池律子

9番 佐久間玲奈

10番 白瀬義行

11番 関根芳絵

12番 千田翔馬

13番 田村可奈美

14番 富山暁人

15番 中澤青花

16番 野井亜美

17番 橋本雄吾

18番 日口梓弥

19番 古田哲

20番 真城芽衣

21番 宮村亮太

22番 森まりな

23番 山崎椿

24番 吉川遥菜

 

 

SHR

 

 先生。という声がして、襖が開いた。

「お待たせ」

振り返ってみると見違えるほど顔が大人らしくなった中学の時のクラスメイトが立っており、懐かしさのあまりに思わず彼らは各々表情を見せた。

「あ、イインチョーだぁ」

3年B組で委員長を担っていた山崎椿は集まった面々の顔を見て少し安堵を浮かべる。そして委員長席と云わんばかりに空いていた中央の席に腰を下ろした。

「イインチョー、おひさだねぇ。何飲むのぉ?」

陽気な声を挙げながら山崎椿に近づくのは稲垣ひよりだった。

彼女は中学生時代、周りと比べると一段と浮く童顔をずっと気にしていたが、あの頃異常なまでに気にしていた幼い顔はすっかり消え失せていた。最後に会ったのが大体十年ほど前という事もあるのかもしれない。

「同窓会ってこともあってさ、卒アル見返してたわけよ、復習みたいなもんでさ――。でも顔全然違ってて誰が誰だか分かんないや。……あ、全く違うってことはないけどなぁ、」と、白瀬義行は酒に呑まれたのか調子気味に話す。

彼は中学校を卒業してから同時に就職をした。元々素行が悪い事もあり、高校受験を教師たちから薦められなかったという。

最初は不満を申し出たが、それも受理される事もなく、中卒で働くこととなり、クラスで一番早く結婚をし、今となっては家族で仲良く暮らしている。

一番不幸せになるだろうなと皆が予想していた白瀬義行こそクラスで一番早く幸せを獲得したのだ。

「ま、そーかもねぇ……」

遠藤唯はほんのりと赤い顔を見せながら淡い色を濁したチューハイを薄い唇で啄んだ。

彼女はクラスで一番美人で博識であった。だからこそ彼女は地域で一番頭の良い高校に行き、地元を離れて皆名前を知っている有名な大学に通っていると聞いた。

誰もが望むエリート街道を歩んでいる彼女は白瀬義行のようには簡単には幸せになれなかったらしい。彼女の理想が高すぎるのが仇となってしまっているのだ。『条件はねー、いけめんで、おかねもちで、いけめんなひと!』とついさっき壁にもたれながら言っていた。

「あ、ヨシユキ、俺ってあの時から変わってる?」

「お前は変わんねーよ、その派手な髪色以外」

「え、そーなのか?」橋本雄吾は十年前と自分が変わってないことに少し安堵と驚きを見せる。

彼は地元の平均的な高校を卒業し、その後美容師になるため美容師の専門学校へと進路を進めた。

元々彼はなんでも簡単にこなせる人間だった。制服のボタンが外れると皆揃って雄吾のところへと並ぶ。その光景をやれやれと呆れながら嬉しそうに手早く直していく。面倒見がいいのか、はたまたクラスメイトが雄吾に甘えているのか。今となっては分からない光景だった。

「てか、全員揃ったね、よし」

「そーね」一人は山崎椿の声に相槌を打った。

「あ、俺、ウーロンハイ追加」

「ファジーネーブル!」

「ゆず酒、ソーダ割り」

「おっけー、おっけー」山崎椿は規則正しくスマホに搭載されているメモ帳でクラスメイトの注文を素直に聞き入れた。

「……注文は、まだいいじゃん」と山崎椿の向かい側に座っている千田翔馬は言った。

彼は利口で教師が左を向けと指図すれば必ず左を向く生徒であった。利口だったからこそクラスの皆は彼の言うことが正しいと信じていた。

彼は今、数学の教師を目指している。

クラスの皆は千田翔馬が数学の教師になるのは適職だと口を揃えて言うだろう。

だが、小柄な体に生ビールのジョッキは不敵で白瀬義行は吹き出していた。

「それじゃあ、さ」

千田翔馬の一声で、皆が黙り込む。

「はじめようか」と、言った。

とりあえず水を喉に通した。

喉は渇いていなくとも、これから目にする現実に受け入れられるように。

カラン、と軽く氷が鳴っても、水が尽きても、見開いた眼が渇こうとも、部屋の冷房が効きすぎても、ぼくらの興奮は収まる事はない。

今がようやく始まりに立てたのだから。

中学生の卒業式が終わって十年経った、今日から、だ。

静かな宴会場で大きく息を吸い上げる音が響く。

部屋は嫌になるほど、一気に静まり返っていた。

テーブルの上で息を荒げて泣きじゃくるクラス担任を担った女の姿がクラスメイトの目に焼き付いていく。ずっと視線で何かを訴えているが何も知らない。

恐らく彼らのことを祝ってくれているのだ。これは勝手な憶測でしかないが。

しかし、目は口ほど……というが何も伝わらなければ意味は無い。担任が何を思っていても彼らは何も分からない。

いつものように指示棒を振り回せればいいのに。教卓の上で楽しそうに振り回す姿は滑稽だったけども。

「ゴホン」委員長は大きく咳払いをした。

「3年B組、出席を取りまーぁす」

「はい」

クラスメイトは大きく返事をした。あの時の卒業式の点呼の時のように。

「新井遠澄」

「あのとき死にました」

「石原貴理」

「クソ苦手だった。石原いるだけで教室の空気悪くなってさぁ……。まぁ、死んだけど」

「稲垣ひより」

「はい」

「遠藤唯」

「はい」

大江光介」

「ノイローゼになっちゃったんだって。お母さんとお父さんが可哀想〜」

「片岡有希」

「あー死んだんじゃない?」

「金輪瑠璃」

「はい」

「小池律子」

「可哀想に。死んじゃった」

「佐久間玲奈」

「死んだよ、嫌いだったから嬉しかったなあ」

「白瀬義行」

「はい」

「関根芳絵」

「誰? 名前聞いても思い出せなくなっちゃった」

「千田翔馬」

「はい」

「田村可奈美」

「家で首吊ってたらしいよ」

「富山暁人」

「死んじゃった」

「中澤青花」

「こんなやついたっけ?」

「野井亜美」

「苦手だった。薄ら笑いのブス野井」

「橋本雄吾」

「はい」

「日口梓弥」

「死んだよ、でも仕方ないことだったんだよ」

「古田哲」

「死んだっけ? こいつも…」

「真城芽衣

「メイ死ぬ間際もぶりっ子だったなぁ。あは」

「宮村亮太」

「……」

森まりな

「はい」

「山崎椿」

「イインチョーダー」

「吉川遥菜」

「屋上で飛び降りました、が。屋上から落ちても死にきれなかったから今病院にずっといます」

全ての名前が言い終わり、委員長は大きく息を吐いた。

「はい。これで点呼を終わります。皆、今日も楽しく一緒に過ごしましょう」

「はい。委員長」全員の声が揃う。

机の上に縛られた担任の顔は、真っ青になっていた。

 

 

 一時間目 保健 : 担当 稲垣ひより

 


先生。突然なんだけど、ひよりはずーっと好きな人がいるんです! 

これは、先生とひよりの秘密なの。秘密を共有するって、大人みたいでひよりすごく憧れてたの。

えっと、そのー。えへ。こんなこと言えるの先生だけだよぉ。

だって、好きな人がいるんだーって言ったら、瑠璃とかに冷やかされちゃうんだもん。

その、ねぇ、る、瑠璃と同じ人を好きになっちゃったんだもん……。

瑠璃、だって、いっつも、その人のことかっこいいよねって、帰り道話してるのぉ……。

瑠璃から先生、相談されたぁ? 

されてない? 

されてないよね……?

されてないよね?

絶対、されてないよね? ……ね?

あ。よかったぁー。そしたら先生はひよりの味方だね。ひよりの恋を応援してねぇ。

えへ。えへへへ、やっぱり先生って頼りになるなぁ。

あ、好きな人はね、ひみつなんだけど、その、そのね……、委員長なんだぁ。

今、ひよりの隣の席でしょー。だからいっつも授業中お話したり……あ、もうあんまりお話ししないようにするね。ごめんなさい。う。

でもでも。ね、委員長すっごく優しいんだぁ。ひよりが分からなかった問題丁寧に教えてくれるしぃ、あと運動も出来るし、かっこいいし、かっこいいし……、あ、あとね、瑠璃にはないしょだけど、今度、二人で遊びに行くんだぁ。ひよりすっごく楽しみなの。

好きな人と二人っきりで遊べるんだよぉ。どんな服着ようかなぁ、とか、どこ行こうかなぁ、とか考えたら、心臓がすっごくドキドキしてばっくばくしちゃうの。これが恋なんだねぇ。恋だよぉ。恋ってすごいねぇ。だって、だって、見えるものが全部輝いて見えちゃうの! すっごくキラキラしてる! 今のひよりには先生も教室も全部輝いてるんだぁ。委員長を好きになるだけですっごく楽しいの! 

えへ、えへへへへ。へへへ、へへー。恋って、すごいんだねぇ。すっごく、素敵。素敵だなぁ……。

あ、でもね。ひより悲しいことがあったんだ。ひよりね、委員長が陸上部で走ってる姿すっごくすっごーくすっごーーく大好きなの。でも、委員長最近辞めちゃったじゃんー。それが悲しかったの。

あ。何で辞めたか、先生知ってる? ……知らないの? 

ふーん。そっかあ。まぁ、うん、またひより、聞いてみるよぉ。

だって、好きな人のことは何でも知りたいもんね。えへへー。えへ。

ねぇ、先生。この気持ちはおかしいと思う? 

この好きだっていう気持ち。

好きって、怖いよねぇ。

だって、ひより、好きっていう気持ちが体中にあってねぇ、すっごーく、幸せなのぉ。

このまま死んでもいいって思うほど。

委員長のためなら死んでもいいや、って。委員長のためなら何でもしようって、思うの。

だからね、ひより、何でもする。委員長が喜んでくれるなら何でもするの。

……ねぇ、先生。先生はひよりのこと、好きかなあ……。

だって、ひより、先生のことも好きなんだぁ。先生はひよりのために何でもしてくれるー? 先生はひよりのために、死んでくれるー? 

先生はひよりのために人を殺してくれるー? 先生はひよりのこと大好きだもんねー? 

あは。あははは。あはは。ははは。はー。

……うそだよぉ。死んでほしいなんて思ってないよぉ。

あははー。はは。あーあ。冗談デース。ムクでキレイなマッシロなウソなのデス。

あはは。あー。つかれちゃったぁー。んじゃぁ、聞いてくれてありがとーね、先生。

さよーなら、先生―。また、明日ねー。ばーいばーい。えへへぇー。

 

 

二時間目 体育 : 担当 山崎椿

 

 

先生。聞いてください。

部活のことなんですけど、……部活、陸上部で、短距離の方でした。

その、走るのが昔から好きだったんです。

走ると自分が皆より優れているかが一発で分かるから。……でも、それと同時に隣で走ってるやつに追い越されたらすんなりと劣っているっていうことも分かる。

遅いって感じちゃったときは屈辱だとは思いました。

だから誰よりも速く、速く、走りたかった。だから俺はずっと走っていました。

勉強は努力をいくらか積み重ねていったら、それ相応にトップには詰め寄れます。

だけど、それ以外は才能の問題。

絵も他人を見様見真似で描いていたらある程度評価はされる。

でも結局はそのある程度で終わる。

それは、絵も……、自分がしていた、短距離も、です。

俺には……、俺は、その。

……才能が、なかったんです。

あ、大丈夫だよーとかそういう同情とか慰めは要りません。だって、自覚はちゃんとしてるんです。

俺は走るのが好きです。

すごく、すっごく大好きです。

でも、好きからは何も昇華されなかった。好き留まりだったんです。

だから陸上部の顧問に指さされて怒鳴られるんです。

――お前ってヤツは、向上心が無い! って。

向上心のへったくれもないです。

自分に才能がないんですからこれ以上の高みを望むことが出来ないんです。

いくら好きでも他の人が優れていたらその好きすらも奪い取られて自分は何にもなくなってしまうんです。

才能がないってだけで、自分は才能のあるやつからどんどん遠ざかっていくんです。

あの時は自分が一番速かったのに、どんどん追い抜かされて、今となっては最下位。

その時にはもう絶望もなかった。

才能がないっていう烙印を押し付けられただけなんですから。

だって、世の中そんなものでしょう? 

いくら努力をしていたとしても、結局は努力よりも才能の方が勝ってる。

努力はいくらでもしました。

でも、でも、俺なんかより怠けてたやつに抜かされました。

才能に負けたんです。

才能に殺されたんです、だって才能がないから。

……だから、走るのを辞めた。

ほら、簡単なことでしょう。

だから、だから、だから……、部活を辞めたことを責めないで下さい。

他の先生なら、お前は逃げた、とでも言うんでしょう。

俺がした選択は逃げじゃないんです。そうですよね……?

先生は、ちゃんと俺の気持ち分かってくれますよね。

だって、俺は逃げたんじゃないんです、逃げじゃない。

だって、俺は後悔してないから。

だって、これは仕方のない事だった。

だって、俺は卑怯者ではないから。

だって、俺は逃げてはない。

だって、俺はもう限界だったから。

だって、俺がいくら頑張っても才能にあるやつに負けるんだから。

だって、負けてどれだけ練習をしても皆に抜かされていくから。

だって、抜かされた時に走ることが嫌になったから。

だって、嫌になったから足が動かなくなったから。

だって、足が動かなくなったのは落ちこぼれになったから。

だって、落ちこぼれになったのは、才能がないから。

だって、才能がないから……。

だって、俺には才能がないんだから……。

だって、だって、俺は、だって。だって……。

そうでしょう、ねぇ、先生。

うん、って言ってください。先生。ほら、頷いて、俺を、安心させてください。

そうすれば俺は、才能がなかったという理由をちゃんと納得させることができるんです。

だから、先生。ほら……。先生。

先生は、俺のことを弱いって、最低な人間だと思いますか? 

絶対に、思わないでください、先生。

だって、だって。逃げてない。

俺は逃げてないんです。逃げてない。

仕方なかったことなんです。

俺だって才能さえあれば走り続けました。才能がなかったから仕方なかったんです。

そうですよね? ほら、そうですよね。

あぁ、ありがとうございます、先生。

その一言で俺は生きてていいんだって、思えます。

あぁ、先生のクラスでよかった。

先生は俺の先生だ。

俺は、先生のためなら、なんでもします。

だから先生、先生……、先生だけは、俺を信じてください……。

こんな俺でも、才能がない俺でも、生きていけるって……。あ、あはは。はははは……。

……本当にすいません、重い話をしてすいません、明日には立ち直ると思います。本当にすいません。

大丈夫です。寝て起きたらまた皆の委員長になっていますから。

聞いてくれただけでも俺は嬉しいです。

それじゃぁ、先生。また明日。さようなら。

 

 

 三時間目 道徳 : 遠藤唯

 


先生。どうしよう。あたし。落ち着いてって、落ち着いてられないです、どうしよう。先生。あたし、怖い。死んじゃった、死んじゃったの、先生も悲しい? 悲しいよね、だって。死んじゃったもん、死んじゃったの、死んじゃって……、死、し、死…………。

……。

…………。

ごめんなさい、やっと、落ち着きました、ごめんなさい……、はー、はー……。はー、……。

やっぱり、その。先生は悲しいですか? リョータ、死んじゃったこと。

リョータ死んでから、クラスおかしくなってきちゃったって、感じますよね、だって、皆、クラス、前みたいな雰囲気じゃなくなってきたから。

先生、リョータ、自殺で、……遺書、見ましたか? 

私、まだ見れてないんです。だって、見たらリョータが本当に死んだんだって、自分の中で区切りがついてしまうんです。

それがすごく怖いんです。

それが、すごく嫌なんです……。

なにが書いてあるんだろうって、思います。でも、読めない。

先生。私って卑怯者ですか? 

大好きなクラスメイトが死んだのに、最後に書き残した文章すら読まない私は、最低ですか?

リョータのお葬式すら行けなかったんです。だって、怖いから。だって、死んじゃったって分かっちゃうから…。

葬式に私行かなかったから、リョータのお母さん、私の家まで来て、私のこと心配になって見に来てくれたんです。

――ユイちゃん、リョータと友達といてくれてありがとう。って、言ってくれたんです。

友達なら、お葬式も行くし、遺書も読みます。

私は、それをできなかったんです。

卑怯者で、最低な、私は、まだ、リョータの友達でいられてますか?

先生、せんせい、せんせい……。怖いよ……。学校に行ってもリョータがいないんです。

あのお調子者だったリョータがいない。

それがすごく怖くて学校行くのが怖くなって私も死にたくなっちゃってリョータみたいに踏切で足を止めてカンカンとなる警告音が聞こえて……、あ、リョータの死体、バラバラだった……。バラバラっていうか、頭、私の、目を、目がね、合った。ギョロって、頭が飛んできていたの。そんな夢がずっとずっと見える。開いた線路でバラバラになったリョータが言うんです。「見捨てたのは、お前だ」って。見捨てたのは私だ。だから、だから…、私は死ぬべきなんだと思います。怖いけど、でも、でも……。

あ……、特急列車に轢かれて踏切にはボロボロの靴しかなかったんだって……、私、死ぬ前にリョータに会ってたんです。

リョータすごく苦しそうだった。その苦しいことは私には教えてくれなかったんです。

いくら大丈夫? って聞いても大丈夫大丈夫って苦しそうに笑うんです。

もし私が引き止めてたらリョータは死なずに済んだんですか、リョータはバラバラにならずに済んだんですか、リョータはまだ教室で笑ってたんですか、だってリョータの机の上にある花は枯れてきて、リョータの遺書はない、リョータは死んじゃって……。

死ぬって怖いです、先生。

死んだ人には分からないけど残された人はすごく嫌な気分になる。

でももしリョータが嫌で嫌で自殺をしちゃったんだったら私はリョータを引き止められたんでしょうか。

リョータに生きてって言えたんですか?

リョータに頑張ってって言えたんですか?

ふと、私もあっちの世界に行けたらとか思っちゃうんです。リョータは望んでないと思いますけど。

でも、この気持ちはどこにぶつけたらいいんですか。すごく、怖くて、死にたくなって、消えたくなって……、一人ぼっちだって、なる。

……もしここにリョータがいたらなんて言うんですかね。

ユイ、ブサイクな顔で泣くなとか言うんですかね、俺のために泣いてんじゃねーよ、とか……、あはは……。なんでもないです。あはは。なんでもない。だってリョータはここにいるから。先生も私の隣にリョータがいるのが見えますよね。リョータはいつも通り笑ってて明日の学校もリョータと一緒に行ってリョータと皆でお昼ご飯食べて昼休み馬鹿みたいに騒いで、そんな日々が私の楽しみで、楽しみ、リョータは、リョータは……。リョータはここにいます。リョータはいます。先生。

…あ、先生、すいません。

少し落ち着きました。先生の顔見ると落ち着く。

早く私も学校に行かないと。

皆来てますもんね。明日には行きます。

すいません。また明日、先生。

リョータもほら、さようなら先生って、言って。言いたくないじゃなくて、言うの。いっせーの、で、だよ。

いっせーの。さようならー、先生。

……さようなら、先生。また、明日。

 

 

四時間目 国語 : 宮村亮太

 

 

先生、クラスメイトの皆、家族へ。

これを読んでるってことは俺は死んでると思う。

父さんへ、こんな早く死んでごめん。親不孝者かな。

でも俺は死ぬしか道はなかったんだ。仕方なかった。こうするしかなかったんだ。

父さんと一緒に酒飲みたかったな。あと五年後だったのにさ。本当にごめん。なんだかんだいって優しい父さんが好きで尊敬してた。だから父さんは父さんであることを誇りに思ってて。なんか、上から目線になったかな、ごめん。

母さんへ、いつも部活とかで朝早いのに弁当とか作ってくれてありがとう。

母さんの作るご飯めちゃくちゃ大好きだった。もうご飯食えないんだって思うとすごく嫌になるけど仕方ないことなんだ。俺の命日には俺の好物のハンバーグ置いててくれ。死んでも食いに行くからさ。

友美子へ、兄ちゃんがダサくてごめんな。

これからはお前一人になるんだから父さんと母さんをよろしく頼むよ。

こんな兄ちゃんで本当にごめんな。友美子はこれからどんな感じで育つのかな、変な男に捕まらずに幸せに生きてほしい。

友美子は、俺が死んだ分まで、生きてくれ。

野球部の皆へ、俺がいなくても野球部は強いんだ。だからいつも通り頑張ってくれ。次期トップバッターは山本だ。大事な試合のときに打ちまくれよ!

翔馬へ、お前とはもう十年以上の仲だよな。俺はずっとお前が正しいって思ってた。

だから今回も俺はお前が言う通り死ぬことにした。

俺が死ぬことは間違ってないよな?

俺が死ぬことで先生は喜ぶんだよな?

クラスメイトの皆は嬉しくなるんだよな?

……って、聞いても仕方ないか。

翔馬が言ったことは全部正しいもんな。

だから俺は死ぬ。仕方ないことなんだ。

翔馬が言ったから。俺はなにも悪くない。

クラスのみんなへ、俺が死ぬことは仕方ないことなんだ。

俺の死で気に病むことがあったら本当にごめん。でも俺の自殺は仕方ないことなんだ。

先生へ、喜んでください。

最後に。

この遺書は先生がずっと持っててください。

先生はこの遺書を捨てるなり自由にしてください。

これが宮村亮太の最後の願いです。

それじゃぁ、さようなら。先生。また明日はありません。

 

 

昼休み

 


 

先生。ぼくらは、先生のためなら死んでもいいって思うほど先生のことを尊敬していました。

先生、大好きです。――だって私のことを心配してくれた。

先生、大好きです。――だって俺のことを見捨てないでくれた。

先生、大好きです。――だって私のことを心配してくれたから。

先生、大好きです。――だってぼくらの先生だから。

ぼくらの先生だから尊敬して好きだと思うのはなにも間違いではない。間違いと指すものは等式を誤っていると非難するものと同義だ。それはそうと、大好き、という気持ちを先生はどうお考えですか? 嬉しいですか? 嫌いですか? ……それとも? 僕らは先生のことが大好きです。でも先生のことを言い様に思ってない奴らがこの教室にいます。アイツらは先生のことを否定しました。絶対に許されないことだ。

だって、ここは先生のための教室なんですよ。先生のためにある、一つの世界です。従わない人間なんてこの世界には必要ではない。従う人間だけを残しましょう。その行動こそがこの世界を安寧へと導くんですから。アイツらは、必要ない。そうですよね? ちゃんと、はっきりと、そうだと、言え。ほら、言え、……言え! ねぇ。先生。先生は、どう思っていますか? と問う声で快晴で卒業式の日で胸に大きな赤いお花がついているのにもかかわらずアイツらを屋上に引き連れてやってきたそこは大きく大きな拍手が下から落ちてきている曼荼羅も恐らく祝福を目の当たりにしているかけがえのない日に私たち俺たちあなたたち僕たちでさよーならーと一声をかけて「せーの、で、お前らは、死ね!」と一人が言うのでガタガタと歯が鳴る先生先生先生先生、先生はどうして一番下でぼーっと見ているのか殺される殺されるんだいいのかとかのんきな声を出しながらベッドの上で見た地球儀は死角なのに青い空はきっとこのまま海に染まってしまいきっと夢さえも食べてしまいますのかと教師はどんな顔して言っていたのだろうかと生まれ変わってまた鉄を強いられて主観に主薬に生まれ変わって生まれ変わりたいあのときのようにみんなの前で死んだあいつのようにはとカチカチカチカチずっと好きなの好きだったんですって過去形? 鏡の中にはウーウーウーとサイレンの甲高い音が引っ張っていきふとマージナルになって咀嚼してるてる坊主は幻までも凌駕をして空はいつの間にかみどりみどり噴水色がおかしくて滑稽なレジ打ちの店員は鋭い眼光で天国の階段エスカレーターにしていって愛してるという言葉が泡沫に消えて実は私妊娠していましたと言われた女子生徒の手を取りずっと泣き出した体育教師を校舎裏に呼び出して集団で殴り美術教師は彫刻刀を持ち黒板を引っかき教科書の上でするシャトルランに心を踊らせた化学反応式はきっと堕ちていき子宮の中に溺れていたカマキリはポップコーンみたいに吹き飛びメリーゴーランドで火星は潰れて地球人大パニックで放射能を投げ飛ばすメジャーリーガーが焼き肉を食べたのならば「死ね!」の喝采が周りで鳴っているのかガタ、ガタ、あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。

あ。

あ。あ。

「早く死ねよ、先生が待っているだろう! あは」あははは、と笑うクラスメイトは楽しそう。

「死ね」「しね」「死ね」「死ね」「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」

「先生の思う通りにならない、お前らなんて、永遠に卒業できねーよ! わははは」

せーの、で、声を合わされて。

「ゴホン。あー。お前ら、卒業おめでとうございます!」

パチパチと手を叩く、嬉しそうなクラスメイトの音が耳に嫌なほど鳴る。あぁ、いやだ。いやだ。死にたくない。死にたくないよぉ。

「死にたくない、死にたくないよ」

隣にいた小池は泣きながら下を見る。

「無理です。死ぬべきなんです。だって先生に従わないでしょう。そんな思考を持ってる人らは、生徒は、このクラスには必要ないんですよ。そんなこと小池さんにも分かりますよね。分かるでしょう?」

「分、分からないよ……」

「そうですか」

橋本はため息をついた。そして小池の肩を持った。

「じゃぁ、死ね」

小池は落ちた。

「りっちゃん、落ちた、ねぇ、りっちゃんが、ひより、助けてよ、ひより」

「むりだよ。ひよりは芽衣より先生の方が好きだもん。先生のためなら死ねるけど芽衣のためなら死ねないよ」

「死んで、詫びろ。あは、あは。ははは」

「先生の言うことに従わないやつは、死んでしまえ!」

「じゃぁ」

彼の一言で後ろで騒いでいたクラスメイトは一気に黙り込み視線をむける。

「なんでしょうか、先生」

クラスを威圧で牛耳っていた白瀬ですら先生に頭を垂れた。

「んー、ぼくのこと従えないなら、死ねば?」

嬉しそうに千田翔馬は言った。

「うん、先生!」

先生と呼ばれたのは千田翔馬だった。

全部、コイツの思い通りの世界だったのか。

その声が聞こえ、後ろから、皆、押される。羽ばたくこともなく、落ちる。

先生の顔は、真っ赤になった。

アイツらにはまた明日はない。 

 

五時間目 数学 : 千田翔馬

 


先生。この光景も、この結果も、すべては先生のためなんです。

だってぼくらは、先生の生徒なんだから。

先生のために、従う生徒だけを残しました。

先生のために、従わない生徒は消えました。……それがこの結果です。

どうですか? 先生。嬉しいですか? 

先生。ぼくらは先生のために全て尽くしました。それを否定するのならば、先生はぼくらの先生じゃなくなるんです。

そんなの嫌、ですよね。

だったら、この光景を素直に受け取ってください。

これはぼくらから先生への卒業祝いです。

先生、おめでとうございます。

卒業、おめでとう……。って。あはは。嬉しいに決まっていますよね。

だってもうここには先生の言うことを素直に聞く奴隷しかいない。奴隷って言い方悪いですかね。

……そうですね。言うならば、盲信者。

先生はいわば、一宗教の教祖です。そしてぼくらはその信者。

もし、先生が、皆死ね、と指示棒を振るのならばぼくらはそれに従います。だってそれがぼくらの願いなんですから。だってそれが先生が指す願いなんですから。

で、先生の願いはなんですか? ぼくを呼び出したということはなにか聞きたいことがあるって言うことでしょう?

…え、宮村亮太が自殺した理由? あー。懐かしいですね。あれはぼくがクラスのために死んでって言ったんです。遺書にも書いてあったでしょ? そしたらクラスのために死ねるなら本望だーとか言って、死にました。

死ぬ瞬間、ぼくは見てました。クラスメイトも見ていました。

遮断機がカンカンと鳴っていて、履き慣らされたスニーカーを脱ぎ線路の上で泣き喚く親友の姿はすごく感慨深かったです。あんなに強がっていた宮村亮太が死ぬ間際になって泣き喚いているんですから。

元々ぼくは宮村亮太に対して劣等感を抱いていました。ぼくと宮村亮太は小学校からの幼なじみなんです。だから余計目につきました。

宮村亮太には運動も勉強もできて人望もあるし、先生のお気に入りの生徒だったでしょう?

ぼくといったら、運動はできない勉強も人並みで人望はない。

先生にとってはしょうもない人間にしか見えなかったでしょう。

でもぼくは選ばれたんです。

宮村亮太は死んでぼくは死ななかった。

宮村亮太の死は神格化されるんです。このクラスの安寧のために捧げられた死として。

だって潰された時はすごく綺麗だったんですから。

バン、という破裂音がしてピンクの脳みそが飛んで、血が噴水のように飛び散る。まるで苺を潰したかのように愛らしく舞う血汁。甘い香りは漂ってきませんでした。全てが血生臭かった。クラスメイトは叫ぶ人も泣く人もいました。周りの人の様子を見てようやく気付いたんです。

クラスでお調子者だった宮村亮太は死んだんだって。

ぼくらのために簡単に死んでくれたんだって。

正直言って笑えました。人って簡単に死んじゃうんだなって。

クラスのために死ぬ? そんなの嘘に決まってるじゃないですか。

ただ単にぼくらのユートピアを作るには宮村亮太が邪魔だったってだけです。

幸いなことに宮村亮太はぼくに信頼を置いてくれてました。死んでくれました。

宮村亮太はぼくらの平和な教室なための礎になったんです。

あ、机の上に置いてある花の水は毎日取り替えてあげてください。枯れた花はぼくらの教室には合わないから。

ところで、話は変わるんですが、ぼく、今先生を目指しているんです。

だって、ぼくは先生みたいな先生になることが夢なんですから。

先生と同じ教科の数学を教える教師になろうかなーって。

だってぼく、先生のために数学は良い点数を取っていたでしょう? 

そのたびに先生は褒めてくれました。あの時の喜びをぼくはまだ覚えています。

――千田君は、すごいねぇ。って。

あはは。まぁ、アイツらの先生は、お前じゃないんですけどね。ハハハハハ、知ってましたか? 知ってなかったよね。

だって、お前はクラスメイトのことを何も見ていないからだ。見ていた? よくそんな口を叩けるな。見ていないんだよ高坂、お前はクラスメイトを誰一人見てなかった。

高坂なんで宮村が死んだと思う?

いじめ? 家庭環境? 書類にどうやって書いた? 宮村亮太が死んだとき高坂はどう思いましたか? 悲しかった? 悔しかった? その感情は一つたりとも違うんだよ。

嬉しかった、でいいんだよ。

だってぼくは嬉しかったんだから。

宮村亮太が死んでクラスがどよめくのが嬉しかった。

宮村亮太が死んでぼくらのクラスに興味がない奴らは次第に学校に来なくなった。

宮村亮太が死んでぼくらの教室が完成した。

宮村亮太が死んでぼくがみんなの先生になった。

っていう事の顛末になったこと、高坂は知ってた? どうせ知らないんでしょ? だから高坂は何も見てないんだよ。

だってこの教室はお前のモノじゃなくなったんだ。

え? 私は先生だからって? ふーん。それなら高坂。答えてください。

 


問題

[稲垣ひよりは誰に恋をしていた?]

解答

[大江光介]

お前はあの教室でどこを見ていた? 割れたチョークの在り処でも探していたのか?

 


問題

[山崎椿はどうして部活を辞めた?]

解答

[空白]

問題外。

ねぇ、本当に、お前は、何を見ていたんだ?

……あ。そんなこと言っちゃいけませんね。……うん。それじゃぁ、また明日。先生。

 

補習 : 高坂千代

私のクラスの生徒が、卒業式に半分以上死にました。

私の、何がいけなかったんでしょうか? 私の指導の仕方? クラスの雰囲気? いくら問うても答えてくれる人は誰もいません。

誰もがこんな悲劇になるとは思ってもいませんでしたから。勿論、私も。

……だって、中学生活を殆ど共にした子たちが卒業式という晴れ舞台で、急に飛び降りたんですよ? 

私には……わけが分かりません。何が起きたのか、今になっても分からないままです。

私には教師が向いてなかったのでしょうか。向いてなかったからこそ、こんなことが起きたのかもしれません。

でも、残ったクラスの子は、先生は悪くない、の一点張りです。……それは、本当なんでしょうか?

私は、あの時から何も分からないままです。

何も分からないまま教師を辞めました。

ただでさえ、クラスの半分以上を自殺させた教師というレッテルを貼られるんです。

勝手につけられたレッテルほどすごく苦しいものはないです。

あぁ、でも私はまた、3-Bの子たちに先生って呼ばれることを望んでいます。先生、先生って……。

卒業式の点呼、感動したなぁ……。一人一人の名前を呼んで、すごく嬉しかった。

私が先生だって認められた気がしたから。

私が先生になってよかったって思えた瞬間だったから。

私が3-Bの担任をしてよかったって思えたから……。

でも、もう、だめです。

マスコミに追われ、自殺をしてしまった親御さんに暴言を吐かれて、……テレビはもうつけられません。だって私を非難してる声が聞こえるから。

もう、だめです。

出来るなら、3-Bの子らに先生ってもう一度呼ばれたかったなあ。

……。…………。

 

 

放課後

 

 

同窓会も終わりに近づいていた。ヒュー、ヒュー、という高坂の荒い息が賑やかな間に流れていく。酒の空いたグラスに囲まれて泣く恩師の姿は実に惨めだ。

「……で、さ。先生」

ぼくは咽び泣いている高坂の顔を見る。

こんな奴がぼくの憧れだったのか。馬鹿らしくなってきた。

「実はさ、ぼく、今日とっておきのことを考えてたんだ。みんなも聞いてくれる?」

そう言うと、酔ったクラスメイトは、おー、わー、とかいう黄色い声を出した。その中で高坂だけはまだずっと泣いている。いつまでコイツは泣いているのだろうか。いい加減泣き止めばいいのに。

「あのねー!」スゥ、と息を吸い込んだ。

とっておきの、理想は目の前にあるんだ。

「……今日から、ぼくが先生になるんだ」

「せんせい?」高坂の声は震える。

「うん、そうだよぉ。ぼくがこの3年B組の担任になるんだぁ、だからこの教室はぼくの物になる。だからこの教室はぼくの指示ですべてが動く。とっても素晴らしいユートピアになるんだぁ。だってさ、誰もがこれまで以上に理想通りに動いて、理想通りに死ぬ。全員が宮村亮太のようにぼくに全て従うんだ。誰も反抗する者はいない。それって、すごく素敵なことでしょう? あは。あーあ、すごいなぁ、嬉しいなぁ……」

「いやだなぁ、先生は、お前だったじゃないかぁ」信者が一人跪いた。

「先生、俺はどうすればいい? いつも通りに教えて」また一人。

「せんせぇ、私に早く授業を教えて!」

先生先生先生、と目を虚ろに靡かせ、更に落ちていく。

ここが、ぼくの楽園となる。なんて幸せなんだろう。争いも憎しみも何もない、たった一つの楽園。

ぼくが望んでいたもの、そのものだ。

 

 

 

 

両親が横に並び、キッチンの換気扇へと向かって白煙を吐いた。

口から吐き出される煙は真っ白なのに、談笑して口の隙間から垣間見える歯の色は黄色だった。母親は淡い緑のピアニッシモ。父親は鈍い青が映えるマイルドセブンを吸っていた。

小学二年生の時に祖父が死んだ。死因は肺癌だった。

祖父は煙草を吸っていたらしい。煙草のせいで肺癌になったのかは定かではないが、親族らは「煙草のせいで癌になってくたばったんだよ」と冗談げに言っていたのを微かに覚えている。

祖父は孫の私にとても優しい人だった。

今でも祖父の死を聞いた情景を思い返せる。両親が共働きだった私は学校が終わり児童館へといつも預けられていた。

児童館の職員がお母さんが来ている、と言い私はランドセルを背負い母の元へと向かった。児童館に母が迎えに来るのは珍しかった。だからこそなにかを期待するかのように私は急いでランドセルを背負い母の元へと向かった。

「せんせー、さよーならー!」と元気よく言うと職員は私のことを哀れんでるようなそんな表情を浮かべながら私を見送っていた。

 

両親が乗る車に乗りその中で祖父の死をようやく知った。

「おじいちゃん、死んじゃったんだって」

助手席に座る母親はそう言った。背中越しで表情は見えなかった。

芳香剤が香る車の中、私は「なんでおじいちゃん死んでもうたん?」とずっと泣きながら聞いていた。祖父にはもう会えないんだということを泣きじゃくる私にずっと言っていた。母を私はずっと責めるかのように泣いた。隣に座る父は何も言わなかった。

小学二年生の頃の私には死というものが分からなかった。だからとてつもない恐怖を抱いていたのだ。

祖母の家には沢山の親族でひしめき合っていた。その中央で祖父はいた。畳の上に青白い顔で、指を組み合わせ横になっている祖父がそこにいた。その姿はただ寝ているだけにも見えた。母が「おじいちゃん、死んじゃったね……」と言った。そこにいるのは祖父であるのは確かだが、祖父はもうそこにはいなかった。祖父は死んだのだ。

そこでようやく私は死をはっきり見たのだ。死というものは幼い私ですら恐ろしいということを分からせた。

この前まで何も無い病室で笑っていた祖父が白装束を着て息をしていない。凄く怖かった。だから私はずっと泣いた。それを見た母親は私をなだめてくれた。

いつも笑顔だった祖母も泣いていた。だが、長男である父親は泣いていなかった。私は父親がなぜ泣かなかったのかが不思議に思えた。

そして通夜が終わり祖父の遺体を焼いた。私の一回りも大きかった祖父は私より小さくなった。その時ふと見えた遺骨を取る黒のスーツを身にまとった父親の背中はどこか小さく見えた。

祖父が死んでから父親は煙草を止めた。父親が煙草を吸っていたのはもう十年以上も前になる。今となっては父親が煙草を吸っていたという面影すらも感じない。

 


私と母親が横に並び、キッチンの換気扇へと向かって白煙を吐いた。

母親の銘柄はあの頃から変わっていない。淡い緑のピアニッシモ。私は深い青が映えるマールボロ。キッチンに置かれている灰皿に二つの銘柄の吸殻が積み重なっていく。口から流れる煙が混じりあっていき換気扇へと吸い込まれていった。

父親の前では煙草は吸えない。

吸っていることはとっくの前にバレている。実家に帰った時に、「お前煙草臭いぞ」としかめ面で言われた。煙草臭いと言われないように香水をふっているというのに親にはバレてしまう。

「そんなに煙草吸ってなぁ、早死したいんか?」と父親は眉をひそめて真剣な顔で私に問うたことがある。その問いに私はケラケラと笑って返した。

もし、両親のどちらかが肺癌で死んだとしたら私は煙草を止められるのだろうか。……そう思いながら私はZIPPOで煙草の先に火をつけた。

部屋の中に白濁とした煙が立ち込めていき、私はようやく安心をした。煙草を吸っている時が私は一番生きていると感じる。

洗濯物も、布団も、全部煙草臭いな。呆れに似た乾いた笑い声も全て口から流れ出る煙に溶けていく。

私は灰の積もった煙草の火を消した。

きっと私は生涯煙草を止められないだろう。そんな気がする。

もし両親が死ねばその後を追うように死んでしまえばいい。恐らく本望だろう。そう、思った。

灰皿から流れていく煙は天へと向かっていく。天へと向かう煙は死へと向かっていく……。